自家中毒を繰り返す幼少期

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はじめまして。私は現在、埼玉県に住む専業主婦です。

早いもので今年還暦を迎えます。

一人息子は社会人になり、主人と二人で障害年金での暮らしをしています。

統合失調症という一般にはあまり知られていない病気にかかり30年が経とうとしています。

こんにちは。30年間統合失調症を患い、障害年金で暮らしているemimamaです。

統合失調症という病気について

統合失調症は100人に一人くらいがかかる比較的多い病気です。

私の場合は祖父がこの病気になり他界していますが、遺伝も関係があるようです。

しかし、発症のきっかけはストレスであることが多く、病院では生まれてから発病までの成育歴をよく聞かれます。

この病気にかかられた方や親御さんはなぜなのかということがとても気になると思います。

私も闘病中にはなぜこんな病気にかかったのか原因が知りたくて、ありとあらゆる書物を読んだりカウンセリングに行ったりしました。

同じストレスがかかってもなる人とならない人がいるのは事実ですが、こうして何度も発病を繰り返す私のようなケースは統合失調症の当事者にも参考になるのではないかと思います。

それで私の備忘録もかねてブログという形でお届けしたいと思うようになりました。

なぜ、幼少期から書こうと思っているかというと、こののち結婚して出産をした後に子育てを通して自分の育ちの追体験をするからです。

追体験をすることによって、私の場合は病気が再燃しましたので関係があるのではないかと思います。

私の成育歴について

それでは、私の成育歴について書いていこうと思います。

私は昭和38年に東京で生まれました。

帝王切開で生まれたのですが、母は輸血で劇症肝炎に罹ってしまい入院を余儀なくされました。

私は母方の祖母に生後一年の間、育てられました。

母子分離が子供に対する愛着を阻害するというのはよくあることだそうですが、母は私にとても無関心でした。

記憶にないほどの小さい頃は人一倍自己主張が強いといわれていました。

その後は私の印象としては何をしてもわがままだといわれ続けました。

第一次反抗期には怒られてばかりいるせいで、常に怪物に追いかけられる夢を見ていました。

幼児の精神病と言われる自家中毒について

主張は受け入れられず、幼児の精神病といわれる自家中毒にかかりました。

自家中毒とは幼児の拒食症のような症状で、何を食べても吐いてしまいます。

病院で自家中毒だと診断されたのち、母から「わがままな子がかかる病気なんだってよ。」と言われたのを今でも覚えています。

(後に大学の臨床心理学の講義で主に母親からの虐待などでストレスからくる幼児の病気だと知りました。また、実際には親の興味を引きたくて無意識のうちにかかる病気でもあるらしいです。)

第一次反抗期を過ぎると、私はもう母に何も期待しなくなりました。

甘えることも何かを要求することもありません。

それでもなぜか母からはわがままだといわれていました。

ですので、私は何がわがままなのかわかりませんでした。

精神年齢が高かった私は、母の叱る言葉尻をとらえて反論を繰り返しました。

その度に生んだことを後悔するようなことも言われました。

私には2歳年下の弟がいるのですが、彼は自然分娩で生まれており母からの愛情を受けていました。

弟は小さいころから頭がよく、勉強が出来るので母がドリルなどを買い与えて算数を教えていました。

邪魔者扱いされた学童期について

私は家の中で邪魔者扱いされて、家で過ごしたくても外で遊んでくるように言われ居場所がありませんでした。

本当は本を読むのが好きだったのですが、絵本などもほとんど買ってもらえず図書館などにも行ったことがなかったので、いとこに児童図書の推理小説を借りたりして読んでいました。

いとこの本棚には私が好きな本がびっしりと埋まっていました。

学校に通い始めるまでは、勉強とは無縁の外遊びばかりするそして大人が大嫌いな孤独な子供でした。

さて、小学校に通い始めてからの私は母との関係性はどんどん希薄になっていきました。

母は私の成績に興味はなく、弟の勉強の出来に満足しているようでした。

私自身は差別されているとは思っていませんでしたが、とにかく母からは愛情を感じたことはありませんでした。

現代ではこのような状況をネグレクトというのでしょうが、食事だけは与えられていたので虐待とまでは言えないのかもしれません。

アルバイトが出来るようになる高校生まで、洋服もおさがりが多かったですし、中学の時は美容院に行くお金をもらえずにお小遣いでは足りないので自分で髪を切ったりしていました。

母は弟の天才児ぶりを喜ぶとともに株式投資に夢中になっていました。

そして株式の情報を得るためと称して、ダンスホールに踊りに行ったり証券マンと浮気をしたりしていました。

私は父に隠れて(私には堂々としゃべっていましたが)浮気をしているのを見てこのような仮面夫婦になるくらいなら結婚はしないと心に決めていました。

中学生になるとテスト範囲や期間が決められるようになりましたので、テスト勉強はするようになりました。

学年での成績は上の中くらいでしたが、弟のようにトップになることはありませんでした。

学校では勉強のできるおとなしい生徒という扱いでしたが、家では落ちこぼれ扱いで相変わらず母とは仲が悪かったです。

私の話に父が出てこないとお思いの方は多いでしょうが、父は旅行代理店の社員で世界中を飛び回る仕事をしており、家にいることがほとんどありませんでした。

私のことは母を通じてしか聞いておらず、わがままな子だと思っていたと思います。

つまり私には家に自分の味方になる人はひとりもいなかったのです。

次回予告について

次回は、自立に向けてアルバイトをしだす高校生からの私のことをお届けしようと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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