発達障害の育児

発達障碍児の問題行動と教育支援センター

前回は、夫婦の危機を乗り越えて統合失調症の寛解期を迎えた話をしました。 病気が落ち着き始めると、私は他のママ友と同じようにパートをするようになりました。 子供が学校から帰るころまでに終えられるような早朝の仕事です。 しかし、学校では息子の不適応が起こっていました。 息子が小学生の頃はまだゆとり教育が行われている時期でした。 なので学校の成績からは、息子が落ちこぼれていることはわかりませんでした。 学校では息子は注意されると机ごと廊下に出てしまい、教室に呼んでも戻ってこなかったそうです。
統合失調症の発病(陽性期)

絵画教室と薬なしで乗り越えた統合失調症の陽性期

主人は離婚を思いとどまりましたが、今度は私の方が主人に対して冷たい態度を取るようになります。 過去がフラッシュバックして、OL時代の感覚に戻ってしまい幻の彼のことを追い求めます。 どこに住んでいるかもわからないので、会社以外居場所は知りません。 でも、会いに来てくれると思い込んでいました。 見当識とは 現在自分が生活している状況や自分自身の存在を客観的に正しくとらえる精神状態のことです。 統合失調症の陽性期には、この感覚がなくなり幻想に生きている場合があります。 こんな時は身近な人でなく、日頃の生活に関係のない第三者の人に寄り添ってもらえると回復することがあります。 要は夫婦関係や親子関係のことを愚痴れる相手です。
統合失調症の発病(陽性期)

離婚の危機と統合失調症の陽性期

統合失調症が再発して、また過去にとらわれ始めた私は主人と距離を置き始めます。 私と母の板挟みになっていた主人は、母の相談役になっていました。 私が流産した時に、配慮してほしいと母に言ったそうですが、そのことを私は知りませんでした。 統合失調症の患者さんのご家族は、なぜ過去にこんなにもこだわるのか不思議だと思います。 統合失調症の人の頭の中には、飛んでいた記憶が急に戻ってくるフラッシュバックが起こっているケースが多いのです。 その過去がどの地点のものかによって親子関係や夫婦関係を壊すもととなります。
統合失調症について

4度目の統合失調症の陽性期と引っ越し

母との決別をして主人と息子と3人だけで引っ越すことになりました。 引っ越し当日から、私は様子がおかしかったと思います。 母とも一言も言葉を交わさず、逃げるようにして新居へ向かいました。 統合失調症の診断には必ず成育歴を聞かれます。 それは、遺伝がないかどうかと親子関係が良いかどうかが大きな要因になるからです。 私の場合は育児を通じて自身の育ちの追体験をし、症状を悪化させることとなりました。
発達障害の育児

発達障害児の子育てと流産と統合失調症の再発

息子の学校不適応は続き、私は勧められた教教育サービスセンターに通うことになりました。 教育サービスセンターは子供の発達障害の具合を見てくれたり、親の対応を教えてくれたりするところです。 「お子さんはADDと言ってもグレーゾーンなので、かえって辛いかもしれませんね。」と言われました。 健常者と見分けがつかないのに、注意欠陥があるために静かに混乱しているというのです。 母として、宿題や課題に一緒に取り組むようにしています。それで絵は描けるようになったんですよ。と言うと「サポートがとても大事だ。」と言われました。
発達障害の育児

母との葛藤の日々と理解されない障害児の子育て

義母の介護は大変でした。 二人がかりでもおむつをはかせるのがやっとで、お風呂は私が介助します。 夜ご飯に用意したハンバーグを焼く前に食べようとしたりして、慌てることもありました。 そして、グループホームでは誤嚥性肺炎になってしまい、危篤状態になりました。 一方の父は長年の喫煙のせいか肺がんの末期になっており、あっけなくこの世を去ったのです。 義母と父は一週間違いで亡くなることとなりました。 父の方の葬儀は母が取り仕切り、つつがなく行われましたが、義母の葬儀はもめて大変でした。
発達障害の育児

発達障害児を抱えて介護と育児を両立する日々

息子が三歳になるころには、義母は完全にアルツハイマー型認知症になっていました。 主人には2人の妹さんがいましたが手分けして介護することになりました。 主人が仕事のない土日は義母の面倒を見ることになったのです。 息子がおむつが取れるとともに義母がおむつをするようになりました。 義母の最初の症状は絶え間ない頭痛だったそうです。 そして、次第に言葉が出なくなり泣いてばかりいるようになりました。 そのうち表情がなくなり、徘徊するようになりました。
発達障害の育児

息子の発達障害と引っ越しの決断

私の病気は育児カウンセリングのおかげもあり、落ち着きました。 寛解期を迎えたので、またしても服薬をやめました。 すると、やる気が戻ってきて育児に専念することが出来るようになりました。 私は息子のために何か良い教材はないかと考えるようになりました。 まず、七田式のフラッシュカードを購入して試してみることにしました。 ADDの息子にとっては、興味のないことに向き合う力はありません。 ディズニーの英語教材も揃えてみましたが、なかなか集中できませんでした。
統合失調症の寛解期

保育園と解離性障害とストーカーの影

私は病気であることを理由に息子を保育園に入れることが出来ました。 ADDの息子にとっても、社会性を身に着けるには良い機会だと思ったのです。 私自身も子供と四六時中一緒にいたのが、一人に慣れる時間が出来て安定していきました。 ママ友も出来ましたし、育児カウンセリングで子育ての悩みや自分の育ちと病気について相談が出来るようになり、心が安定するようになりました。 そんな矢先、また彼が私の周りをうろつくようになったのです。
統合失調症の陰性期

追体験と減薬と統合失調症の陰性症状

育児をすると自分自身の生い立ちを追体験します。 それで親のありがたみがわかる人もいれば、私のようになぜ怒られてばかりいたのか悩むことになる場合もあります。 増量されたリスパダールの薬の影響で希死念慮が消えない私は、追体験によって追い詰められていきました。 過去に私は物心ついた時からわがままだと言われ続けていました。 息子の成長を見るにつけ、それがわがままではなく、乳幼児のあたりまえの姿だと実感するようになりました。
発病以前

解離性障害を発症したOL時代

社会人になってからの私は早くからプロジェクトリーダーを任され奮闘していました。 そんな中、ストレスを受けるたびに一部の記憶がなくなるという現象が起きるようになったのです。
発病以前

退学して家出を考えた思春期

私は高校、大学とお小遣いをほとんどもらっていませんでした。 そのため制服のブラウスや私服に至るまで自分のアルバイト代で賄っていました。 そんなアルバイトの生活を快く思っていなかった母は何かと突っかかってくるようになりました。 終バスで帰る私を仁王立ちで待ち構えていました。 そして何かにつけて「言うことが聞けないなら出ていけ。」というようになりました。 私は大学の授業はすごく面白かったのですが、母の攻撃に耐えきれず、退学して家を出ようかと悩みました。 母は父が単身赴任し、弟も私も私立の学校に行ったので金銭面で苦しかったようです。
発病以前

自家中毒を繰り返す幼少期

統合失調症という一般にはあまり知られていない病気にかかり30年経とうとしています。 統合失調症は100人に一人くらいがかかる比較的多い病気です。 私の場合は祖父がこの病気になり他界していますが、遺伝も関係があるようです。 しかし、発症のきっかけはストレスであることが多く病院では生まれてから発病までの成育歴をよく聞かれます。 この病気にかかられた方や親御さんはなぜなのかということがとても気になると思います。 私も闘病中にはなぜこんな病気にかかったのか原因が知りたくて、ありとあらゆる書物を読んだりカウンセリングに行ったりしました。 同じストレスがかかってもなる人とならない人がいるのは事実ですが、こうして何度も発病を繰り返す私のようなケースは統合失調症の当事者にも参考になるのではないかと思います。 それで私の備忘録もかねてブログという形でお届けしたいと思うようになりました。
発達障害の育児

発達障碍児の問題行動と教育支援センター

前回は、夫婦の危機を乗り越えて統合失調症の寛解期を迎えた話をしました。 病気が落ち着き始めると、私は他のママ友と同じようにパートをするようになりました。 子供が学校から帰るころまでに終えられるような早朝の仕事です。 しかし、学校では息子の不適応が起こっていました。 息子が小学生の頃はまだゆとり教育が行われている時期でした。 なので学校の成績からは、息子が落ちこぼれていることはわかりませんでした。 学校では息子は注意されると机ごと廊下に出てしまい、教室に呼んでも戻ってこなかったそうです。
発達障害の育児

発達障害児の子育てと流産と統合失調症の再発

息子の学校不適応は続き、私は勧められた教教育サービスセンターに通うことになりました。 教育サービスセンターは子供の発達障害の具合を見てくれたり、親の対応を教えてくれたりするところです。 「お子さんはADDと言ってもグレーゾーンなので、かえって辛いかもしれませんね。」と言われました。 健常者と見分けがつかないのに、注意欠陥があるために静かに混乱しているというのです。 母として、宿題や課題に一緒に取り組むようにしています。それで絵は描けるようになったんですよ。と言うと「サポートがとても大事だ。」と言われました。
発達障害の育児

母との葛藤の日々と理解されない障害児の子育て

義母の介護は大変でした。 二人がかりでもおむつをはかせるのがやっとで、お風呂は私が介助します。 夜ご飯に用意したハンバーグを焼く前に食べようとしたりして、慌てることもありました。 そして、グループホームでは誤嚥性肺炎になってしまい、危篤状態になりました。 一方の父は長年の喫煙のせいか肺がんの末期になっており、あっけなくこの世を去ったのです。 義母と父は一週間違いで亡くなることとなりました。 父の方の葬儀は母が取り仕切り、つつがなく行われましたが、義母の葬儀はもめて大変でした。
発達障害の育児

発達障害児を抱えて介護と育児を両立する日々

息子が三歳になるころには、義母は完全にアルツハイマー型認知症になっていました。 主人には2人の妹さんがいましたが手分けして介護することになりました。 主人が仕事のない土日は義母の面倒を見ることになったのです。 息子がおむつが取れるとともに義母がおむつをするようになりました。 義母の最初の症状は絶え間ない頭痛だったそうです。 そして、次第に言葉が出なくなり泣いてばかりいるようになりました。 そのうち表情がなくなり、徘徊するようになりました。
発達障害の育児

息子の発達障害と引っ越しの決断

私の病気は育児カウンセリングのおかげもあり、落ち着きました。 寛解期を迎えたので、またしても服薬をやめました。 すると、やる気が戻ってきて育児に専念することが出来るようになりました。 私は息子のために何か良い教材はないかと考えるようになりました。 まず、七田式のフラッシュカードを購入して試してみることにしました。 ADDの息子にとっては、興味のないことに向き合う力はありません。 ディズニーの英語教材も揃えてみましたが、なかなか集中できませんでした。
統合失調症の発病(陽性期)

絵画教室と薬なしで乗り越えた統合失調症の陽性期

主人は離婚を思いとどまりましたが、今度は私の方が主人に対して冷たい態度を取るようになります。 過去がフラッシュバックして、OL時代の感覚に戻ってしまい幻の彼のことを追い求めます。 どこに住んでいるかもわからないので、会社以外居場所は知りません。 でも、会いに来てくれると思い込んでいました。 見当識とは 現在自分が生活している状況や自分自身の存在を客観的に正しくとらえる精神状態のことです。 統合失調症の陽性期には、この感覚がなくなり幻想に生きている場合があります。 こんな時は身近な人でなく、日頃の生活に関係のない第三者の人に寄り添ってもらえると回復することがあります。 要は夫婦関係や親子関係のことを愚痴れる相手です。
統合失調症の発病(陽性期)

離婚の危機と統合失調症の陽性期

統合失調症が再発して、また過去にとらわれ始めた私は主人と距離を置き始めます。 私と母の板挟みになっていた主人は、母の相談役になっていました。 私が流産した時に、配慮してほしいと母に言ったそうですが、そのことを私は知りませんでした。 統合失調症の患者さんのご家族は、なぜ過去にこんなにもこだわるのか不思議だと思います。 統合失調症の人の頭の中には、飛んでいた記憶が急に戻ってくるフラッシュバックが起こっているケースが多いのです。 その過去がどの地点のものかによって親子関係や夫婦関係を壊すもととなります。
統合失調症について

4度目の統合失調症の陽性期と引っ越し

母との決別をして主人と息子と3人だけで引っ越すことになりました。 引っ越し当日から、私は様子がおかしかったと思います。 母とも一言も言葉を交わさず、逃げるようにして新居へ向かいました。 統合失調症の診断には必ず成育歴を聞かれます。 それは、遺伝がないかどうかと親子関係が良いかどうかが大きな要因になるからです。 私の場合は育児を通じて自身の育ちの追体験をし、症状を悪化させることとなりました。
統合失調症の寛解期

保育園と解離性障害とストーカーの影

私は病気であることを理由に息子を保育園に入れることが出来ました。 ADDの息子にとっても、社会性を身に着けるには良い機会だと思ったのです。 私自身も子供と四六時中一緒にいたのが、一人に慣れる時間が出来て安定していきました。 ママ友も出来ましたし、育児カウンセリングで子育ての悩みや自分の育ちと病気について相談が出来るようになり、心が安定するようになりました。 そんな矢先、また彼が私の周りをうろつくようになったのです。
統合失調症の陰性期

追体験と減薬と統合失調症の陰性症状

育児をすると自分自身の生い立ちを追体験します。 それで親のありがたみがわかる人もいれば、私のようになぜ怒られてばかりいたのか悩むことになる場合もあります。 増量されたリスパダールの薬の影響で希死念慮が消えない私は、追体験によって追い詰められていきました。 過去に私は物心ついた時からわがままだと言われ続けていました。 息子の成長を見るにつけ、それがわがままではなく、乳幼児のあたりまえの姿だと実感するようになりました。
統合失調症の陰性期

妊娠・出産そして統合失調症の再発と希死念慮

一人でいる時間が長いと病気に良くないと思った私は、仕事に出ることにしました。 旅行代理店のパート事務です。 パートの仲間たちとの会話で元気になることが出来ました。 しかし、半年を過ぎるころ念願の妊娠が発覚して退職することになりました。 出産までの間は、何事もなく平穏に過ごせたのですが、慣れない育児をする中で昼夜逆転をし再発することになるのです。
統合失調症について

今でも忘れられない現実か幻想かわからないこと

今でも忘れられない幻想があります。 現実なのか妄想なのかわからない事があるのです。 統合失調症が落ち着いていた寛解期の夜の事でした。 当時のことは今でも度々フラッシュバックします。 その日、普段通りに主人が帰ってきて私は夕食の支度をして待っていました。 私は35歳になる前に子供が欲しいと思っていました。 それで、一年間飲み続けた薬を再び一時中断し、妊活を始めることにしていました。
統合失調症について

ドラマに原案を売った?主人と彼の対決と解離性障害

前回はお医者さんに統合失調症の正体について教えてもらいました。 予めかなり調べていたので、おおよそのことは予想していました。 むしろ私の病気の正体がわかってホッとした気持ちの方が強かったです。 いつものようにリスパダールを処方され、少し落ち着いてきました。 私の病気が治まってくると、母は私を疎ましく思うようでした。 何もせずに家にいることを、非難するようになりけんかが絶えなくなりました。 私は新居に帰ることにして実家を出ました。
統合失調症の発病(陽性期)

再び統合失調症陽性期へそして医師との対決

止まないフラッシュバックは私を統合失調症陽性期へと悪化させていきました。 解離性障害も同時に発症し、自分を横から見ているような感じがします。 幻聴もひどくなり、母とも衝突するようになりました。 統合失調症は妄想を伴う病気なので、妄想が広がってしまわないように実態についてや妄想そのものの解説はしてくれません。 それが患者の症状を悪化させないお医者さんの判断の一つなのです。 そんな中、調べてもわからなかった統合失調症のメカニズムをお医者さんから聞き出すことになるのです。
統合失調症について

絶え間ないフラッシュバックと統合失調症の再発。そして実家へ避難へ

慣れない新婚生活を送る中で、早朝起きて朝食とお弁当を作り、夜は遅くに帰る主人のために夕食を作りました。 そして昼間は買い物を終えると掃除や洗濯をし、図書館にこもる生活でした。 睡眠時間が足りなくて昼間は仮眠をとるようになりました。 すると夜眠れなくなりついに病気が再発するのです。 最初は絶え間ないフラッシュバックが始まりました。 結婚式の場面からやがてOL時代の最初に病気が起こったころのフラッシュバックに変わっていきました。